【第1章】ヘルスケアエコシステムにおける構造変化

ヘルスケアエコシステムとは

「ヘルスケアエコシステム」という言葉を、「患者・未病者の健康に関わるステークホルダー(利害関係者)が相互かつダイナミックに織りなすエコシステム(生態系)」を示すものとして使っていきたい。健康に関わるステークホルダーは行政・公的保険者、患者・患者団体・家族会などに加え、製薬企業、治療・診断機器企業、薬局、医療機関はもちろん、健康関連の製品・サービスを提供する企業、健康増進に関わる商品・サービス展開を行う民間保険企業、デジタル技術を生かして革新的な製品・サービス展開を行ってきているテクノロジープラットフォーマーやスタートアップなどさまざまなプレイヤーが存在する。規制、経済、社会、技術の変化に伴い、ステークホルダー間の関係は常に変動していき、その相互の働きかけの中でヘルスケアエコシステムの方向性が決定されていくこととなる。ヘルスケアを、幅広いステークホルダーからなるダイナミックなエコシステムとして理解することが、今後の展望を考察していく上で重要になるであろう。

ヘルスケアエコシステムを考える上では、規制当局による業や製品・サービスの許認可、公的保険制度下での償還、行政主導の地域医療や地域包括ケアなど公的な枠組みのみならず、民間相互の働きかけも重要である。中央政府による許認可、保険償還に加え、国民健康保険(国保)責任主体でもある都道府県が中心となって推進する地域医療、介護保険者である市区町村が責任主体となって推進する地域包括ケアは、医療機関、介護施設、患者・利用者・家族、そして関連するプレイヤーに大きな影響を及ぼす。一方で、これら行政主導の枠組みの外で、患者・未病者・家族が主体的に活用する製品・サービスも大きな役割を果たしており、今後、自律的な健康管理・予防、ヘルスケアと日常生活の融合が進む中で公的な枠外でのステークホルダーの活動はより重要なものなっていくことが予想される。

ヘルスケア市場における「価値プール」の変化

Strategy&が世界の大手製薬企業の経営層120名以上を対象に行った調査*1によると世界の医療費は2018年から2030年にかけて10%程度増加すると予測されている。また、一部の研究者による調査によると42%増加すると予測している*2(図1参照)。製薬企業の経営層が相対的に保守的な見通しを持っているのは、薬価引き下げによって医療費が抑制されることの影響を大きく見積もっているためと考えられる。

また、OECD、WHOの調査*3によると患者1人当たりの医療費は製薬企業の経営層の予測に基づくと28%、一部の研究者による調査での見積では7%減少すると予測されている。これは対象患者数が45億人から68億人へと大幅に増加することに、医療費総額の伸びが追い付かないと考えられていることによる(図表2参照)。

これらのことから、より費用対効果の高い製品・サービスを提供する企業は売り上げを伸ばし、利益を確保する一方、既存のコスト構造で製品・サービスを提供する企業は存続が難しくなると想定される。また、相対的に患者・未病者・家族が自ら負担し、利用する製品・サービスの果たす役割が増す中で、エビデンスに基づく有効性とともに、費用対効果の訴求がより重要となると考えられる。

また、医療費の内訳は2030年にかけて大きく変化する。欧州、米国ともに予防、デジタルヘルス領域の医療費が大幅に増加する一方、薬剤費を除く医療サービス費は減少し、薬剤費も、フランス、ドイツ、イタリア、スペインでは減少することが予測されている(図表4参照)。つまり、「治療から予防へ」、モノからデジタルを活用したサービスへのシフトが起きると想定される。

図表1: 2030年の世界医療費予算の伸び予測

「治療から予防へ」のシフトによって、未病者への働きかけを通じた行動変容が重要となり、未病者が日常的に使用する製品・サービスを提供する企業が果たす役割が必然的に大きくなることが想定される。特に生活習慣病や認知障害の予防のためには、運動、食事、睡眠の質向上に寄与する製品・サービスが重要となり、関連する製品を提供する企業がヘルスケアにおいて果たす役割が大きくなる。

また、モノからデジタルへというシフトによって、データの蓄積とアナリティクスの活用、そして自動化がもつ意味はより大きくなり、テクノロジープラットフォーマー、スタートアップが果たす役割はより大きなものとなることが想定される。

Strategy&が行った調査においても、製薬企業の経営層は、主にテクノロジー企業がヘルスケア業界の変革を牽引していくと認識していることが明らかとなった(図表5参照)。

特に図表6が示すように、デジタル化、日常生活への組み入れ、そして、新たなエコシステムの構築において、テクノロジー企業が牽引役としての役割を期待されている。また、他のステークホルダーに目を向けると、患者は自己管理に基づくヘルスケアの実現を、医療・診断機器企業は予防、個別化医療を牽引すると考えられており、製薬企業は、個別化医療とエコシステム構築に寄与する役割を担うとされている。

こうした変化が意味することは、ヘルスケア市場における「価値プール」の配分が変わるということである。すなわちこれまで医薬品やその他の治療に対して多くの医療費が費やされてきたが、今後は予防、診断、デジタルヘルスなどに対する投資が増えていき、エコシステムに関わるプレイヤー間で価値創造=利益の配分が変化していくのである。

ヘルスケアエコシステムの形成・進化を加速する要因

ヘルスケア市場における価値プールの変化をもたらす、こうしたヘルスケアエコシステムの形成・進化を加速させる要因として、規制環境の変化、社会構造の変化、そして技術革新の3つが挙げられる。

1. 規制環境の変化

費用対効果評価の拡大、予防・セルフメディケーションの推進、そしてオンライン診療規制の緩和の3点が重要である。これによって、コミュニティーとしての医療費削減に寄与する製品・サービスが果たす役割が拡大し、オンライン診療を前提としたエコシステムの形成が進む可能性が高い。

費用対効果評価、予防・セルフメディケーションについては、厚生労働省が「保険医療2035提言書」で掲げた「2035年に向けた3つのビジョン」のうち、「リーン・ヘルスケア~医療の価値を高める~」と「ライフ・デザイン~主体的選択を社会で支える~」のビジョンの中で扱われている。「リーン・ヘルスケア」で投入資源に対する患者価値の最大化がうたわれており、費用対効果評価はより広範囲に活用されると考えられる。現行の運用体制が十分なものとなった後に、対象品目の拡大、間接費用を含む、より包括的な指標での評価、保険収載判断への使用や診療報酬への適用などが検討される可能性がある。「ライフ・デザイン」では、人々の主体的な健康への関与と、健康の社会的決定要因の重要性が併記されており、セルフメディケーションとコミュニティーレベルでの予防・重症化防止が推進されると考えられる。保険適用の縮小、スイッチOTC(医療用医薬品として用いられた成分が、市販薬に転換・スイッチされた医薬品)の推進、セルフメディケーション税制優遇の拡大とともに、地域医療連携・地域包括ケアの拡大や、新たな公的な予防・健康推進プログラムの提供、関連のプレイヤーへの税制優遇などの政策が実行される可能性がある。

オンライン診療規制緩和については、2020年10月に当時の菅内閣が表明したように、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の感染拡大に伴い導入された時限措置の恒久化を政府は目指している。一方、診療側は慎重で、四病院団体協議会のうち3団体(全日本病院協会、日本病院会、日本精神科病院協会)と、診療所開設者が主な会員(2020年12月時点40%超)である日本医師会はともに、患者情報が十分に得られないといった懸念などから、初診は対面を原則とするなど、限定的な運用を求めている。政府検討会においてオンライン診療の実施の恒久化に向けた指針が取りまとめられる中で、時限措置後の運用が明らかになる予定ではあるが、基本的には、時限措置前と比べてより広い範囲でのオンライン診療が認められていく可能性が高い。

2. 社会構造の変化

人口減少・高齢化が進行することに加え、都心部への人口集中が緩和される可能性がある。これによって、予防・重症化防止、費用対効果評価の重要性が高まり、薬価の切り下げ圧力が高まるとともに、オンライン診療も拡大していくと考えられる。

人口減少・高齢化の傾向は今後も継続すると考えられ、2020年に内閣府が公開した「高齢化社会白書」においても、人口は2019年から2035年にかけて1億2,617万人から1億1,522万人まで減少し、65歳以上人口割合は28.4%から32.8%まで増加すると予測されている。人口減少と高齢化は、1人当たり医療費の増加を抑制する圧力をさらに高め、さまざまな疾病(生活習慣病、循環器疾患、運動器障害や認知機能低下など)の予防・重症化防止と費用対効果評価の重要性が高まり、薬価切り下げ圧力も高まるものと考えられる。

都市、特に東京圏(東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県)への人口流入は1995年以降継続していたが、東京都は2020年5月に2013年7月以降初めて転出超過となった。7月以降も継続して転出超過が起き、東京圏でも2020年7、8、11、12月と転出超過となるなど人口流出が起こっている*4。COVID-19の感染拡大に伴って推進されたリモートワークの利点が労使ともに認識され、今後も継続的に実施される場合、都市人口集中逆転の傾向は継続する可能性がある。人口と医療資源のミスマッチを解消する手段としても、オンライン診療の利用が加速すると想定される。

3. 技術革新

先端技術(センサー、機械学習、ロボティクスなど)が今後もさらに発展していくことで、医療と生活の融合、予防・診断・治療の自動化が促進されると考えられる。

非侵襲的なセンサー技術の発展は目覚ましく、眼の画像に基づく血糖値測定技術や継続的な血圧測定などの研究開発が進められている。より複合的・大規模な医療データがNDB(ナショナルデータベース)の民間利用推進や、電子カルテなどのデータ相互連携推進のためHL7 FHIRなどを用いた標準化によって利用できるようになる可能性がある。データの充実は、活発な機械学習の応用研究と相まって、より正確な画像・音声認識やより高度なテキスト情報処理、非構造化データでの予測分析での利用が広がり、「AIは医師を置き換えない。AIを活用できる医師が、そうでない医師を置き換える」未来*5をもたらす可能性が高い。ロボット技術も高度化に伴って、これまで以上に多様な活動をより繊細にできるようになるため、人間が行うことを補う場面が増えていくと考えられる。

こうしたエコシステムにおける構造変化の中で、主要なプレイヤーが新たな価値創造の機会を求めてどのような取り組みを行っているか、いくつかの事例を見ていきたい。

ヘルスケアエコシステムに関わる主要プレイヤーの動向

1. 製薬企業

遺伝子解析技術を用いた個別化医療やデジタル技術を用いた新たな治療法の開発が行われている。個別化医療では、2019年から国内初となるがん遺伝子パネル検査を製薬企業と臨床検査企業、ITプレイヤーが提携して展開している。デジタル治療法では、ADHD(注意欠陥・多動性障害)、ASD(自閉症スペクトラム障害)、糖尿病、うつ病などの疾患を対象に開発が進められている。また創薬にAIを活用し、ターゲットたんぱく質の特定、ターゲットへ特異的に

結合する薬剤候補の評価を効率化する取り組みも行われている。今後、オミックス解析技術の発展に伴い個別化医療の適用範囲を拡大するとともに、デジタル治療でも生活習慣改善、認知行動療法や認知刺激が有効である疾患において新たな製品の開発が進められるものと考えられる。

2. 医療・診断機器企業

個人別のカスタムインプラントや診断・治療の自動化が進められている。整形外科領域では3Dプリンタを活用した外傷や脊椎用カスタムインプラントが既に開発されている。また、胸部CT画像や内視鏡画像の解析自動化に機械学習の技術が使用され、一般外科や整形外科で手術ロボットの開発が行われるなど自動化の動きも加速している。3Dプリンティング技術の発展に伴い、眼科などより広い領域でカスタムインプラントに活用され、機械学習とロボティクスの発展・統合によって診断・治療を自動化する範囲も拡大する見込みである。

3. 薬局

オンライン診療・調剤対応とともに、機械学習とロボティクスを用いた顧客接点の強化が図られている。リモート服薬指導、処方箋ネット受付、キャッシュレス決済、処方薬配送などに対応するとともに、オンライン診療との一体化も進んでいる。また、処方監査、疑義照会服薬指導を支援するAIシステムや調剤ロボット導入の動きもある。対物から対人へのシフト、オンライン診療の広まりの中で、より一層の効率化を追求するとともに、個別の患者に対する知見に基づいて、食事・運動・睡眠など、包括的に健康をサポートする存在となることが期待される。

4. 医療機関

オンライン診療と機械学習の技術を用いた診断・治療方針検討自動化の動きが広がっている。オンライン診療は、2019年7月時点でオンライン診療料の届け出を行っていた病院は1%, 診療所は1.2%程度と限定的であったが、COVID-19の感染拡大に伴う時限措置を経て、2021年3月時点で10%弱まで広がりを見せている。患者の利便性や、医療機関の効率性改善などが実感されることで、オンライン診療の利用は拡大すると予想される。機械学習の技術は、認知機能低下、てんかん、小腸粘膜障害などの画像診断に用いられ、ゲノム医療では文献検索やレポート作成に活用されている。国立研究開発法人などのプロジェクトを通じ、ウエアラブルを用いたリスク予測、電子カルテを用いたミス回避、個別化医療ソリューション開発など用途が今後さらに広がっていくと考えられる。

5. 健康製品・サービス企業(食品メーカー、スポーツクラブなど)

食品メーカーは、食品成分の健康増進に関するエビデンスを自社研究、あるいは大学、医療機関、地方自治体などとの共同研究を通じて構築している。加えて、免疫疾患に関する研究や食事・運動管理アプリ、腸内環境検査キットの提供など、食品にとどまらず周辺領域でも展開を進めている。また、スポーツクラブは地方自治体と連携し、成功報酬型を含む健康増進プログラムを提供し、認知機能低下予防、運動プログラム開発や心臓リハビリテーション患者のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)向上、糖尿病患者向け運動プログラムなどを提供している。今後も生活習慣病、免疫疾患、認知機能などの分野で健康に寄与する食品や運動プログラムを開発し、予防・重症化防止に大きな役割を果たすことが期待される。

6. 民間保険会社

健康増進型保険に加え、疾患の予防・重症化防止、介護支援に関わる活動を実施している。各社が健康増進型保険商品を提供する中で、健康状態の共有と、生活習慣病予防につながる行動に対して金銭的なインセンティブを与え、契約者の健康リスクを低減する行動を促している。また、がん予防・発見、禁煙、認知機能低下の診断・予防、ロボットなどを用いた介護支援の領域でサービス提供・開発を進めるとともに、健康関連データ活用のため研究機関や関連企業との提携も行っている。今後も、がん、認知機能、介護などの領域での連携を通じ、保険商品の魅力度向上を図っていくと考えられる。

7. 大手ハイテク企業

基礎研究、治験の推進、診断・治療の自動化・効率化、オンライン診療・調剤、そして個人の健康管理支援など幅広い領域で大きな存在感を発揮している。基礎研究では、たんぱく質3次元構造予測や加齢・長寿研究、免疫系解析などを行っており、治験では研究機関、企業、患者をつなぐデジタルプラットフォームを提供している。診断・治療でも、X線画像診断を専門医と同等の精度で実施できるシステムを開発し、音声検索やオンライン診療と一体化した健康記録管理サービスを提供している。機械学習の技術を用いて入院患者の死亡リスク、再入院、入院延長などを予測できることも示している。また、24時間対応のオンライン診療サービスやオンライン薬局を展開する動きもある。さらにフィットネストラッカーによる個人の健康管理ソリューションの展開も進んでおり、心房細動の早期検知や喘息マネジメントなどに関する研究が行われている。今後も機械学習、クラウドコンピューティング、ウエアラブルなどに関わるデジタル技術や豊富な資金力を生かして、エコシステムの変革を牽引していくと考えられる。

8. ITベンチャー企業

モバイルアプリ、オンライン診療・調剤ソリューション、AI診療支援ソリューションやロボットなど、さまざまな領域で先進的な製品やサービスを提供するスタートアップが存在する。治療用アプリとしては、承認済みのニコチン依存症、開発中のアルコール依存症、2型糖尿病、小児ADHD向けなどさまざまな疾患を対象としたものがある。その他にも、食事、水分補給、運動、瞑想、睡眠など生活改善を促すものや、おくすり手帳、服薬リマインドといった治療支援を行うさまざまなアプリが存在する。オンライン診療・調剤では、スマートフォンで予約、問診、受診、服薬指導、処方薬配送、決済を行うサービスが提供されている。診療支援分野では胸部X線画像診断、ゲノム医療のソリューションが提供され、がん検査や幹細胞分化などに関する研究が進められている。ロボット分野では、2020年国内で初めて手術支援ロボットの製造販売が承認され、開発中のものも複数存在する。また下肢の運動機能補助、リハビリを行うロボットは既に販売されており、上肢麻痺のリハビリロボットも開発が進められている。今後も技術的な強みを生かして、ユニークな製品・サービス展開を行うスタートアップが多く現れると予想される。

このように、ヘルスケアエコシステムにおけるプレイヤーが、構造変化に対応した新たな取り組みに着手する事例が多くみられる。では、日本におけるヘルスケア業界全体を俯瞰した時に、各プレイヤーはどの程度この構造変化が進展すると予測し、またこの変化を事業機会あるいは脅威と捉えているのだろうか。Strategy&が独自に実施した調査結果を次章で紹介する。

※レポート内に掲載されている執筆者および監訳者の所属・肩書は、レポート執筆・監訳時のものです。


*1:Strategy&、2020「. ヘルスケアの未来を拓く:デジタルヘルスケアの時代、製薬企業はどう事業を守り育てていくべきか?」
*2:Institute for Health Metrics and Evaluation, University of Washington, 2019. The Lancet
*3:Global Burden of Disease Health Financing Collaborator Network, 2017. The Lancet
*4:総務省統計局, 2020『. 住民基本台帳人口移動報告2020年(令和2年)結果』
*5:Gemma Conroy, 2020. "Six researchers who are shaping the future of artificial intelligence". Nature


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